玉依比売命
たまよりひめのみこと
品陀和気命(応神天皇)
ほんだわけのみこと
息長足姫命(神功皇后)
おきながたらしひめのみこと
伊弉諾尊
いざなきのみこと
伊弉冉尊
いざなみのみこと
延長5年(927)
延喜式に遠江国敷智郡六座の神の一座 許部神社と所載されています。
天慶元年(938)
神託により許部の里から曳馬の里(現在地)に遷座、この時 白狐が老翁の姿で松の小木を携えこの宮地に導き松を移し植えた。この故事により「浜の松」すなわち「浜松」の地名になったといわれています。
永承6年(1051)
源義家(八幡太郎義家)が陸奥へ下向の折、神社の傍らの楠の下に旗を立て八幡二柱の神を勧請し、和歌一首を奉ったといいます。これにより、この楠を「 御旗の楠 」(ミハタノクス)と称するようになりました。
永享4年(1432)
六代将軍足利義教が富士を見ようと駿河の国へ下向の折、繁茂し臥龍の如く這い伸びる「浜の松」の下で富士を遥かに望み、浜松の音は颯々(ザザンザ)と謡い、里人はこの松を「颯々の松」と称するようになりました。
元亀元年(1570)
徳川家康公は、居城を岡崎より浜松へ移し、八幡宮が源義家勧請の武家の守護神であり、浜松城の鬼門の方位にあることから鬼門鎮守、鬼門降伏の氏神として信仰し武運長久を祈り度々参拝したといわれます。
元亀3年(1572)
三方原合戦に敗走した徳川家康公は八幡宮に逃れ、社前の楠の洞穴に潜み、神明の御加護によって武田勢の捜索を逃れました。その時、この楠より瑞雲が立ち上った事から、以後「雲立の楠」(クモタチノクス)と呼ぶようになりました。その後、徳川家康公は八幡宮を徳川家代々の祈願所と定め、旗、弓、神馬を奉納、家康公が江戸に府在の折は、名代を使わして参拝したといわれます。
慶長8年(1603)
征夷大将軍に任ぜられた徳川家康公より社領五十石の朱印を与えられ、幕府より歴世朱印を与えられたといいます。
大正13年(1924)
松島十湖の句碑が浜松俳壇によって建立される。
八幡の神は古来、弓矢の神、武運、勝運の神として広く知られています。
八幡の神は古来、弓矢の神、武運、勝運の神として広く知られています。
当宮の由緒にあるように源義家公を始め、徳川家康公など数々の武将が武運長久、必勝を祈願し参拝してきました。特に家康公は、浜松城の城主になったころより八幡宮を徳川家代々の祈願所と定めました。将軍となって江戸に府在の折は、名代を使わして参拝したといわれています。
御祭神の玉依姫命は、安産・子育ての神としても信仰されています。
御祭神の玉依姫命は海の神です。出産は海の潮の満ち引きと関わりがあると考えられていたことから安産・子育ての神としても信仰されています。
日本には古くから、妊娠5ヶ月目に入った戌の日に、妊婦さんが安産祈願(帯祝い)のお参りをする風習があります。「戌(いぬ)の日」とは、十二支の11番目にあたる、12日に一度めぐってくる日のこと。たくさんの子を産み、お産が軽い犬は、昔から安産の守り神として人々に愛されてきました。それにあやかって、12日に一度訪れる戌の日に、妊婦さんと赤ちゃんの無事を願って、安産祈願を行うようになったと言われています。
主祭神の玉依姫命は、海上交通、道中安全、交通安全の御神徳があります。
主祭神の玉依姫命は、難海鎮静を祈りお祭りされた神で海上交通、道中安全、交通安全の御神徳があります。
交通安全のご祈願は、殿内にてご祈祷の後、「自動車のお祓い」をします。
御祭神の伊奘諾尊、伊奘冉尊の2柱は結びの神です。
御祭神の伊奘諾尊、伊奘冉尊の2柱は結びの神です。
結びというのは、2つのものを1つに結び固めることです。男女の縁を結ぶこともそうですが、人と人との縁や又信仰の上では神と人との心を結ぶこともいいます。そして2つのものが結ばれた時に産霊(むすひ=あらゆるものを生み出す力)の働きによって新しいものを生むことになります。
お守りを持つ方々の願いが叶うようにご祈祷してあります。
長寿・健康・子宝のお守りです。
樹齢千年以上と云われる御神木の「雲立の楠」実が納めてあります。楠の実は毎年秋、巫女により集められます。その実は楠の分身であります。御神前にささげ、お守りを持つ方々の願いが叶うようにご祈祷してあります。
厄災を祓い清めて開運招福を導く大神として信仰されています。
「雲立の楠」の由緒にあるように徳川家康公が、そのご加護によって苦境を切り抜け道が開かれて将軍に上りつめたことから厄災を祓い清めて開運招福を導く大神として信仰されています。